私は、東大の教師になるかどうかなんて関心ありませんが、いい学生に教えたい、と思います。ところで、頭のあまりよくない子は、教師についてゆきます。これに対して、頭のいい子は、教師のメニューについてゆきます。だから、メニューのない教師には、頭のいい子はついてきません。ちょっと衝撃を受けたのは、谷沢永一さんの教え子が、卒業後、田舎の高校で教師をしていて、先生が出した最初の著作を読み、その本で示されたやり方(メニュー)で書誌の勉強をし、のちに成果を書き付けの一言も添えずに送ってきた。先生は、この教師に媚びない「学生」を、のちに自分の後継者にした、ということを読んだときです。よくできる子は、メニューさえあれば、自力でことを成すんですね。だから、自前のメニューが教師には不可欠であり、それがない教師には、いい学生はついてゆきません。ところが、与えられた授業に出てくるまじめな子は、せいぜいよくて、「あ、このオッサン、なんか頑張ってるな」つてなもんです。でも、私が無気力にならないのは、彼らはきっと、哲学などというものを、一生習わないわけでしょう。でも、「変なオッサンに習ったぜ、あいつこんな変な本書いてるぜ、鼻紙にもならない本だが」と、偶然にしろ思い出してくれることがあるのではないか、という思いがあるからです。たまにしろ、「読んだぜ」というような便りをもらうこともあるからです。私でさえ、自分が習ったゴミみたいな先生が書いた記事や本を読み、ゴミだけじゃないことをやっていたんだ、と知る機会があり、読者になります。その時に、なにかずしっとくるものがあるのです。これは、知識とか技術の量とは別なものですね。
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