応仁元年(一四六七)に始まった応仁・文明の乱により、隣国の若狭守護武田氏との争乱が起こります。この乱の後も、丹後守護職をめぐる一色氏と武田氏による争いは絶えませんでした。明応七年、守護一色義秀が国衆に攻められ普甲山で切腹するなど、「戦国争乱」の時代を迎えます。その後、天下統一を目指す織田信長の命を受けた細川藤孝(幽斎)が、丹後の国衆を制圧。天正八年、信長から丹後国の支配を任されることになりました。藤孝は宮津城(宮津市)を本拠、田辺城(舞鶴市)を隠居城として、加悦や峰山、久美浜などに家臣を配置。関ヶ原の戦いまで、細川氏による丹後統治が行われました。近世慶長五年、関ヶ原の戦いにおける功績で、細川氏は豊前中津夭分県)へ移封となります。代わって、京極氏が丹後に入国しますが、元和八年(一六二二)初代・高知の死後、丹後国は田辺・宮津・峯山の三藩に分けられました。西禅寺(与謝野町石川)は応永三十三年に浄土宗寺院を改宗して、丹波天寧寺を開いた愚中周及の弟子留心安久が臨済宗の寺として開創しました。その後、元和元年に再建されました。寺には本堂、庫裏、山門、鐘楼、観音堂、土蔵などがあり、鎌倉後期の阿弥陀如来立像があります。本像は浄土宗の西善寺時代の像とみられます。上山寺(京丹後市丹後町上山)は、天応元年(島根県)の明法上人によって開かれたと伝わる古い歴史を持つ寺院です。創立当時は信仰者が多く、その後、二十五年ででき、修行僧も各地から集まるほど隆盛を極めました。竹野郡中野城主小倉備前守の祈願寺となりました。本尊の十一面観音菩薩立像をはじめ、室町期の五輪塔や宝阪印塔などの石塔・石仏といった文化財が数多く残され、市指定文化財となっています。千手観音菩薩立像えんじょうじはしぎ縁城寺(京丹後市峰山町橋木)の創建と伝えられる縁城寺は、丹後でも有数の古刹。本尊の千手観音菩薩立像は、国指定重要文化財に指定され、像高一五二センチメートルの一木造りで平安時代後期の優品です。
[参考サイト]
坂本屋瑠璃亭公式サイト